初心のために

ボランティアなんだから基本、
自分が好きでやってんの。



だから疲れを感じるのって違う( -_・)?じゃないかと思ったりして。



4、5年ほど前から
二次救急の病院で


患者相談のボランティアをしています。



ボランティアっていうと


自分が病気になって
健康の大切さを感じたからとか、


今あるのは
周りの人たちのおかげだから
そのことをいかして

ボランティアするようになりました
とか聞くことあって


そういう方は、健全というか
素直というか、

そーなんだね~。と
ふつうに思う自分がいる。



だけどね



私はそういう気持ちは
ほとんどないかも。



最初は知的好奇心でした。


子どもが小さい時、
熱性痙攣で小児救急に
かかったことがありました。

その時の当直のDrは
子どもをチラリとも
見ることなく



母親である私からのみ
状態を聞いて
診察が終わりました。



また別の時、

私が病院にかかった時の
医師は

パターナリズム(父権主義)を
絵に書いたような人でした。



憤りというのは全くなく
ただ、不思議でした。



強者がより強者になるその
バランス感覚とか。



そういう疑問が
医療を取り巻く状況と一緒になって


自分の中で

はてなマークが


満載だった頃だったので



そういう疑問が晴れるかな
という気持ちで

受講したのがきっかけでした。



そこで
現代の医師や病院をとりまく
いろいろな問題、


例えば

軽症の患者が次々救急搬送され
結果的に医師が疲弊していく


現状などを知りました。


もちろん
多くの場合は


よく話を聞いて
丁寧に説明してくれる
医師のほうが


多かったように思い
医療には感謝していますってのは

基本にはあります。


そのうえでってことで
書いていますが。




その事があってから
私が感じていた不思議が
ふにおちて理解できたような
気がしました。


患者さんの話をうかがいたいと
思っている自分って


なんなんだろうと思う。


さっきもいったように



患者さんのためにすること
という観念はなく



まして

問題を個人の心理的特性や
人格だけにすべてを
回収させようともしない。



そうではなく


私は


患者自身の
ナラティブな状況に添いながら


患者のインタレストに
近づきたいのだ。



イメージはこんな風だ。



その人は診察室に入る。


不調を訴える。

診断、説明、治療が始まる。

そして

その人は患者と名付けられる。


患者は診察室を出る。


病気や治療に対する不安だけでなく
それぞれがもつ背景、歴史により、


病気だけではない問題が加わる。


それに加えて
医療との間に過誤がある場合は
より複雑になる。


そこで


ナラティブなアプローチで
患者のそばにいようとするのが
非医療モデルのわれわれです。




その姿勢とスキルに
医療メディエーション



可能性を感じて



ワクワクするからね。



自分の為に




初心を、確認してみました~。




いつかのお茶時間♪
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ではでは。